国内初の臨界事故
事故発生日:H.11年・1999/09/30、午前10時35分頃、茨城県東海村
場所:核燃料加工JCO東海事業所のウラン加工工場の転換試験棟
手作業中に臨界が起こり、作業員2名が、強烈な中性子線を手元で浴びる。
色白のお顔が、被爆後、このような肌の色に。そして高齢者のようなお顔に。
外にいた1人を入れた3人が重体となる高線量の放射線で被ばく。
臨界になった溶液に最も近い位置にいたAさんが最も高線量で被ばく。
Aさんは83日後、平成11年、1999/12/21、東大病院で逝去。
Bさんは211日後、平成12年、2000/04/27に逝去。
現場近くに居た人達を含め周辺全住民に問題となるほどの被ばくはなかった。
事故直後に検出された放射性核種は微量で半減期の短い核種。
環境上の影響も小さいもの。農産物も安全だった。
会社の経営・管理上の当事者責任が最も重い。
臨界事故時
▼JCOは国の許認可を得た設備及び方法による作業とは会く異なる手順で、硝酸ウラニル溶液を作っていた。
▼さらに悪いことに、複数のバッチの溶液を全体として均一に混ぜ合わせるという許可を得ていない。
▼許可を得ていない混ぜ合わせる作業の際、臨界を防ぐのに必要な手順を省いた。
▼この作業では使うことになっていない沈殿槽(内径45cm、高さ61cm)。
▼沈殿槽に、作業員1人が漏斗を支え、もう1人は5L入りステンレス製ビーカーから漏斗を通して水溶液を入れた。
▼6バッチ分もの溶液を入れ、7バッチ分目を注ぎ足している途中で青い光が出た。
臨界となった。もう1人の作業長は隣室にいた。
▼作業動作は、臨界にさえならなければ特に危険というほどのものではないそうだ。
このウラン加工工場は、
色々な種類のウラン化合物に処理を加えて、原子炉の燃料の原料として都合のよい品質のウラン化合物を作る所。
臨界事故とは
原子炉の燃料として使用できる物質を核燃料物質(代表的なものがウラン化合物)。天然ウランはウラン-238(99.3%)とウラン-235(0.7%)から成っており、
通常は燃料に使うには、核分裂しやすいウラン-235の比率を3~4%程度に高めた濃縮ウランにする。
1個の核分裂で多くの場合2個の核分裂片(このほとんどが放射性の核分裂生成物になる)、平均で2.5個の中性子、およびガンマ線などの放射線が飛び出す。
その中性子のうちの1個が周囲の核燃料物質で次の核分裂を起こし、そこで生まれた中性子のうちの1個がまた次の核分裂が起こす。このように核分裂連鎖反応が起こる。周囲に十分な量があると連鎖反応が持続する。それ以下では連鎖反応が持続しない。このぎりぎりの量を臨界量。
核燃料物質が予想外の原因で制御不能なまま臨界量を超えて事故になることを臨界事故。